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最高裁判所大法廷 昭和23年(れ)2063号 判決 1949年12月21日

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人塚本重頼上告趣意第一点について。

しかし、強盗の予備をしたものが、その実行に着手した以上、それが未遂に了ると既遂になるとを問わず、その予備行為は未遂又は既遂の強盗罪に吸收されて独立して所罰の対象となるものではない。本件において、原審は既に判示強盗殺人未遂罪を認定所断したのであるから、もはや所論の予備行為は所罰の対象として独立して審判さるべきものではないのである。論旨摘録にかゝる原判決の事実摘示は、論旨の主張するように、独立した強盗予備罪を構成する罪となるべき事実を認定した意味ではなく單に被告人が本件犯行をなすに至るまでの経過を示しその犯情の一端を明らかにする目的を以て認定掲記したに過ぎないものであることは原判決を一読して容易に了解し得るところである。從って原審が該事実に対し刑法二三七條を適用しなかったのはむしろ当然であり、原判決には所論のような違法はない。論旨は理由なきものである。

同第二点について。

原判決によれば、所論匕首不法所持に関する判示第二の事実は(法定の除外事由のないという点を除きその余の部分全部を)判示第一の強盗殺人未遂罪の犯情を示すべき事実として、既に確定されているのである。この事は、判示第一の事実摘示を通読することによっても、又原判決が、判示第二の事実摘示として「法定の除外事由がないのに昭和二三年四月二三日前記第一記載の如く刄渡一六糎の匕首を松戸駅から前記犯行の現場迄所持してゐた」と説示していることに徴しても明白である。そして判示第一の事実認定は、その認定の資料として原判決の挙示する証拠、すなわち押收に係る匕首(昭和二三年押第一九一二号の六)その他に照らし、これを肯認するに難くないのであるから、判示第二の匕首不法所持罪を構成する罪となるべき事実も亦該証拠によって証明せられていると認められるのであって、從ってその証拠説明の如きも判示第一の事実に対する証拠説明の外に更に繰返してこれをなす必要はない筈なのである。蓋し既に一定の事実が或る犯罪の犯情としてでもその証明がありとせられ、その証拠説明がなされている以上、偶々その事実が別個独立の犯罪を構成するものとして更にこれを説示する必要があるとしても、事実そのものゝ存否に関する裁判所の心証とその根拠とに異同のあり得る筈もなければ、又あってはならないのであるからである。然るに原判決は、判示第二の事実についても重ねて「被告人の当公廷における判示同趣旨の供述によってこれを認める」旨説示しているのである。しかしそれは、事実が前掲証拠の外に被告人の自供によって認め得ることを附加したに過ぎないものと思われるのであるが、或は原審は法定の除外事由がないという点に関し判示第一の事実認定資料中にその証拠が欠如していることを考慮しその認定の根拠を説明しようとしたものであるかも知れない。しかし法定の除外事由のないということは不法所持罪を構成する罪となるべき事実ではなく、却ってかゝる事由の存在することは犯罪の成立を阻却するものたるに過ぎないのであるから、その点に関してはもともと証拠によりこれを認定する必要はなかったのである。いずれにしても原判決の右証拠説明はなくてもよかった説示に外ならない。論旨は原判決のこの無用な証拠説明に眩惑され、恰も原審が判示第二の事実を被告人の自白のみによって認定したものゝ如く誤解し、これを前提として違憲論を展開したものであって、採用の限りでない。

しかのみならず、憲法三八條三項に所謂本人の自白には判決裁判所の公判廷における自白を含まないと解すべきことは、当裁判所の判例において既に屡々判示したところであり、今この判例を変更する必要を認めない。新刑訴法が三一九條二項において公判廷における自白であってもそれが被告人に不利益な唯一の証拠である場合にはこれによって有罪とされない旨の規定を新設したことは所論のとおりである。

しかし、かゝる規定を設けたことの当否はしばらくこれを措くとして、この規定は憲法三八條三項に対する所謂解釈規定ではなく、自白偏重の弊害を矯正し被告人の人権を擁護せんとする憲法の根本精神をさらに拡充すると共に新刑訴法の指導原理たる当事者対等主義にも立脚して、自白が当事者である被告人の供述たる点を考慮してその証拠能力について、新たな一の制限を設け公判廷における自白にまで及ぼしたものに過ぎないのである。それは丁度憲法三八條二項においては「強制拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白」について証拠能力を制限しているのを、新刑訴三一九條一項においてはさらに拡充して「その他任意にされたものでない疑のある自白」についても証拠能力を制限するに至ったのと同様である。これ等は、何れも憲法の基本精神を拡充しその線に沿った法律改正であって、毫も憲法の趣旨に普及するものでないから、その合憲性を有することは疑いのないところである。されば、憲法三八條三項の合理的解釈として示した判例の見解は毫も新刑訴三一九條二項の規定と矛盾するところはなく今後も維持さるべきものである。從って反対の見地に立って右判例の変更を求める所論には賛同することはできない。論旨はこの点においても理由なきものである。

同第三点について。

死刑そのものは憲法第三六條にいわゆる「残虐な刑罰」に当らないとすることは当裁判所の判例とするところである(昭和二二年(れ)一一九号昭和二三年三月一二日大法廷判決参照)。既に現行制度における死刑それ自体が然りとすれば同様に現行制度における無期懲役刑そのものも亦残虐な刑罰といゝ得ないことは一層当然であろう。論旨は、死刑はその與える若痛が瞬間的であるに反し、無期自由刑は犯人の生涯を通じ永続的に人間存在の前提ともいうべき自由を剥奪し、必要以上の精神的肉体的苦痛を與え死刑に比して却って残虐であるといわねばならないと主張する。無期自由刑が観念的には--仮出獄、刑の施行停止、恩赦等の制度のあることを度外視すれば--犯人の一生を通じその自由を剥奪せんとするものであることは所論のとおりであるが、俗に「命あってのもの種」といわれるように、論旨が人間存在の前提であるとする自由そのものは実は生命の存在を前提とするものであり、生命の剥奪は、すべての自由の絶対的剥奪となる。人は本能的にその自由よりもその生命を尊重し、生命の剥奪を自由のそれにも増して嫌惡し恐怖するのが通常である。尤も特殊の人が特殊の事情の下に無期自由刑よりも死刑を選ぶようなこともないではないであろう。しかし、それはあくまで稀有な例外的事例に過ぎないのであってこれを以て一般を律することはできない。さればわが刑法においても現代文明各国の立法例と共に死刑を以て最重の刑とし無期自由刑をこれに次ぐものとしているのである。(刑法一〇條参照)。のみならず科刑の目的は受刑者その人を対象とする特別予防の外に社会を犯罪から防衞せんとする一般予防の面もあるのであるから、刑の種類及び量の適否と要否とについてもこの両者の立場から考察されなければならない。そして又犯罪と犯人とがその型と質とを異にするに從いこれに対應する刑罰も亦その量及種類を異にせざるを得ないのである。死刑を以てしては過酷に失し有期の自由刑を以てしてはなお足りないとする場合もあり得るのであるから、法律が無期自由刑を認めたからというて、唯特殊の受刑者の個人的立場からのみこれを目して必要以上にその精神的肉体的苦痛を與える残虐な刑罰を規定するものとし、違憲であると断じ去ることはできない。しかも近時における行刑制度は素朴な應報刑主義の見地のみによらず教育刑主義にも立脚して組織され運用されているのである。すなわち現代の行刑は、無期自由刑の受刑者に対してもでき得る限り、その物心両生活においてその反省の機会を與え人間生活の廣さと深さとを味得せしめてその更生を誘致すべく努力するのである。所論は人間の生命に対する本能を顧みず、刑の真義と行刑の実情とを正視しない偏見に過ぎない。更に論旨は仮りに無期自由刑が一般的に憲法にいわゆる残虐な刑罰に該当しないとしても、本件において被告人に対し無期懲役を科したのはその具体的事案の内容、殊にその未遂に終っていることに照らし残虐な刑罰といわざるを得ないと主張する。しかし、原審の認定した事実によれば被告人は乗車勤務中の車掌を殺害してその所持する運輸省貸與の懐中時計を強奪しようと決意し、昭和二三年四月二三日ハンマー及び匕首を携えて松戸駅から田端駅発綴行常磐線下り二六七号貨物列車の最後部緩急車々掌室に、車掌吉田実の承諾を得て乗込み同日午後一〇時半頃突如吉田実の前頭を所携のハンマーで殴打し、次いで匕首をふるって同人の肩、顔面その他を数回突刺し又は斬付けてから、同人の所持していた運輸省貸與の懐中時計及びその鎖を強奪した上、同人を牛久駅と荒川沖駅との中間において通行中の列車から車外に突落したのであるが、同人に対して直径三糎の円形深さ〇、五糎の前頭部陥没骨折深さ一二、三糎右眼外側部刺創深さ一〇糎巾二糎の右肩胛部刺創その他三ヶ所に切創を被らしめたに止り、殺害の目的を遂げなかったというのである。そして原審は、この事実にもとずき刑法二四〇條後段、二四三條を適用し、しかも未遂罪の減軽をしないで所定刑中無期懲役を選択所断したのであるがその未遂罪の減軽をしなかったのは本件犯情の全貌を斟酌した結果と了解し得るのであって、未遂減軽が事実審裁判所の裁定に委ねられている現行法においては、直にこれを違法といゝ得ないことは多言を要しないところである。そしてまた原判決にはその量刑の点においても実驗則に背反したと認むべきかどもなく、まして、人道に悖る「不必要な精神的肉体的な苦痛を加え」残虐な科刑をしたものとは到底認め得ないのである。所論は畢竟事実審である原審の裁量権の範囲内において適法になした量刑を非難するに帰着するもので、採用に値しない。

同第四点について。

牽連犯は元來数罪の成立があるのであるが、法律がこれを処断上一罪として取扱うこととした所以は、その数罪間にその罪質上通例その一方が他方の手段又は結果となるという関係があり、しかも具体的にも犯人がかゝる関係においてその数罪を実行したような場合にあっては、これを一罪としてその最も重き罪につき定めた刑を以て処断すれば、それによって、軽き罪に対する処罰をも充し得るのを通例とするから、犯行目的の單一性をも考慮して、もはや数罪としてこれを処断するの必要なきものと認めたことによるものである。從って数罪が牽連犯となるためには犯人が主観的にその一方を他方の手段又は結果の関係において実行したというだけでは足らず、その数罪間にその罪質上通例手段結果の関係が存在すべきものたることを必要とするのである。然るに所論銃砲等所持禁止令違反の罪と強盗殺人未遂罪とは、必ずしもその罪質上通常手段又は結果の関係あるべきものとは認め得ないのであるから、たとえ、本件において被告人が所論強盗殺人未遂罪実行の手段として匕首不法所持罪を犯したものとしても、その一事だけで右両箇の罪を牽連犯とみることはできない。原判決には所論のような違法はなく論旨は理由なきものである。

よって旧刑訴四四六條に從い主文のとおり判決する。

この判決は、論旨第二点に対する説明中公判廷における自白の証拠能力に関し、裁判官真野毅、同齋藤悠輔の補足意見、裁判官塚崎直義、同沢田竹治郎、同井上登、同栗山茂、同小谷勝重、同穂積重遠の各少数意見及び論旨第三点に関する同齋藤悠輔、同沢田竹治郎の少数意見がある外、裁判官全員の一致した意見によるものである。自白の証拠力に関する齋藤裁判官の補足意見及び塚崎、沢田、井上、栗山、小谷各裁判官の少数意見は昭和二三年(れ)第一六八号同年七月二九日大法廷判決に、真野裁判官の補足意見及び穂積裁判官の少数意見は昭和二三年(れ)第一五四四号昭和二四年四月二〇日大法廷判決に示されたとおりである。

なお上告趣意第三点に対する裁判官齋藤悠輔、同沢田竹治郎の意見は次のとおりである。

憲法三六條にいわゆる「残虐な刑罰」とは、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められるか否かにより決せられるものであることは、既に当裁判所大法廷の判例とするところであって(昭和二二年(れ)一一九号同二三年三月一二日大法廷判決判例集二巻三号一九四頁参照)刑法所定の法定刑の種類又は分量が重きか軽きか(刑法一〇條参照)により定むべきでないことはいうを俟たない。されば死刑又は懲役は、懲役又は罰金に比し「残虐な刑罰」であるとか若しくは懲役一年又は罰金一千円は懲役十年又は罰金一万円に比し「残虐な刑罰」でないとかいうことはできない(右判例集一九七頁井上裁判官の意見「残虐という語の廣義の使い方」参照)。蓋し、英米法においては大陸法系におけるがごとき明文を以てする罪刑法定主義を採らないし、また、米合衆国憲法修正第八條には「過大ノ保釈金ヲ要求シ、過大ノ罰金ヲ科し又ハ残酷ナル及異常ナル刑罰ヲ科スベカラズ」(美濃部達吉氏訳による)との規定があるから、同憲法においては性質上残酷な刑罰ばかりでなく分量上過大な科刑をも禁止していると解し得られるけれども、わが憲法三六條には單に「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とあるに過ぎないから、濫りに右米国憲法に追随してこれと同一に解すべき理由がないからである。

そしてわが刑法は旧刑法二條と同じくいわゆ罪刑法定主義を採用し、刑罰の種類を主刑と附加刑の二種に大別し、前者を死刑、懲役、禁錮、罰金、拘留及び科料の六種とし、更らに懲役、禁錮をそれぞれ無期と有期とに分ち、各本條において一定の犯罪構成要件と共にこれに科すべき刑罰の種類及び有期、無期又は長期若しくは短期、多額若しくは寡額を法律を以て定め、その法定の範囲内における刑罰の種類の選択又は刑期若しくは金額の量定を原則として裁判官の自由裁量に一任する立法方針を採っている。從って裁判官の量刑についての自由裁量が法定の範囲を逸脱しない限りはこれを違法であるということはできない。こゝを以て旧刑訴法は、その四一二條において「刑ノ量定甚シク不当ナリト思料スヘキ顕著ナル事由アルトキハ之ヲ上告ノ理由ト為スコトヲ得」との特別規定を創設して上告理由を法令違反以外に拡張したのである。しかし、かくてはあらゆる事件は上告審の対照となり、法律の解釈統一を主たる使命とする上告裁判所はその負担に堪えない実績に徴し刑訴應急措置法一三條二項において右旧刑訴四一二條の規定はこれを適用しないと規定して量刑不当の上告理由を許さないものとしたことは、何人も知るところである。そして新刑訴四一一條就中その第二号も右刑訴應急措置法を踏襲して刑の量定が甚しく不当である場合でも刑訴四〇五條に該らないのは勿論これを上告理由とすることを許さないものとしたのである。

されば、本件においては、刑法一二條に「懲役ハ無期及ヒ有期トシ……懲役ハ監獄ニ拘置シ定役ニ服ス」とある「無期懲役」が單に憲法第三六條にいわゆる「残虐な刑罰」に当るか否かゞ問題であって、それが死刑に比し残虐であるか否か、無期懲役を選択したことが残虐であるか否かゞ問題ではない。從って多数説が死刑でさえ残虐な刑罰に当らないから無期懲役は残虐な刑罰といえないことは当然であるとして、生命と自由と孰れが重きかにつき縷々説明しているのは問題の解答ではないといわねばならぬ。若しかかる論法が許されるならば「苔刑」、「杖刑」や「入墨」や「晒」「引回」等は死刑よりは勿論無期懲役よりも一層残虐でないといわなければならない(前記井上裁判官の意見参照)。まして多数説が原判決が本件において無期懲役を選択したことが経驗則に照し相当であることを説明するがごときは、啻に、從來学者実務家が多年に亘り量刑の標準を探求してその準則を発見すること不可能であった事実を無視して毫もその実質的な実驗則を示すことなく、單に、名目だけの架空な実驗則という言葉を使用しているに過ぎないばかりでなく、実に、法律審たる権限を逸脱した越権行為であり、それ自体違法であるといわねばならない。

私見によれば、法定の範囲外に亘る量刑は違法であって、もとより憲法において禁止するまでもないことであり、また、法定の範囲内における具体的刑罰は具体的犯罪に應ずる予定することのできない相対的のものであって、事実審の裁判官が事実審理の上具体的犯人の主観的情状と具体的犯罪の客観的情状とを見その他諸般の軽減、加重の事由をも考慮して決すべき事由裁量事項に属する。言い換えれば、立法者は、これを予定することができないから、單に刑の種類と限度とを定めて抽象的にその範囲を法定し、その法定の範囲内において具体的刑罰を裁量決定すべきことを挙げて事実裁判官に一任したのである。從ってこれが当、不当は自ら当該事件の審理をするのでなければ到底完全を期し難いから刑事訴訟法の定めるところに從い事実覆審官をしてこれに当らしめるを当然とし、前述のごとく法律審に対する上告理由とすることを許さないものとしたのである。されば、憲法三六條は、かゝる法定の範囲内において事実裁判官が決定した個々の具体的刑罰の種類分量が不相当に過大なものを憲法上特に禁止する趣旨ではなく。刑罰それ自体がその執行方法等において性質上残虐であって文化的平和的国家しとて許すべからざるものを絶対に禁ずる趣旨に過ぎないものと考える。そして刑法一二條に規定する監獄に拘置して定役に服さしめる刑罰が現代文化平和国家として性質上残虐なものとは考えられない。現に同じ憲法においても、その三四條は、適式正当な抑留拘禁を認め、またその一八條後段は、明らかに、犯罪に因る処罰の場合にはその意に反する苦役に服させられることを認めている。そして、それが有期でなく無期であるからといって現代文化社会観念に照し許すべからざる残虐性を有するともいえない。なぜなら、無期刑といえども、その執行中において恩赦、仮出獄、執行停止等を妨げられないからである。それ故刑法所定の無期懲役は、死刑とは全然関係なく、憲法第三六條にいわゆる残虐な刑罰に当らないものと考える。本論旨前段は、それ故に理由がなくまた論旨後段は上告適法の理由として採ることができない。

(裁判長裁判官 塚崎直義 裁判官 長谷川太一郎 裁判官 沢田竹治郎 裁判官 霜山精一 裁判官 井上 登 裁判官 栗山 茂 裁判官 真野 毅 裁判官 小谷勝重 裁判官 島 保 裁判官 齋藤悠輔 裁判官 藤田八郎 裁判官 岩松三郎 裁判官 河村又介 裁判官 穂積重遠)

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